「我南極に向かわんとす」の電報を大西洋の寄港地からアムンゼンは打ちました。
それを、南極へ向かうために途中寄港したオーストラリアのメルボルンでスコットは受け取っていました。
英国では、この電報に関して「無礼で挑発的だ」、「この突然のライバル出現で、スコットは動揺し、彼の非業の死に繋がったのでは」という考えがあります。
アムンゼン本人は、この電報に関して、「事前の連絡なしにいきなり南極で遭遇する方がかえって無礼だ」という思いで電報を打ったと語っています。
スコットが第2回南極探検に向かっていた時に現れたアムンゼンとは、どういう人物なのかを少し語りたいと思います。
ロアール・アムンゼンは、1872年7月16日生まれのノルウェーの探検家です。1888年にフリチョフ・ナンセンがグリーンランド横断に成功したことに刺激を受けて探検家になることを決めたと言われています。
1897年ベルギーの探検隊に参加して、南極での越冬を経験しました。
1903年から1905年にかけて北極海を横断する北西航路横断に史上初めて成功しました。
次に、北極点初到達を目指しましたが、1909年4月6日にロバート・ピアリーが北極点に到達したことを知り、アムンゼンは目標をひそかに南極点に変更しました。
(スコットとアムンゼンによる南極点初到達の競争)
1911年1月2日にスコット(42歳)が、1月14日にアムンゼン(38歳)がそれぞれ南極に到着しました。そして、中継基地などを設営した後に越冬をして次の南極の夏を待ちました。
1911年10月20日、アムンゼンは南極点に向けて出発しました。55日間かけ1911年12月14日に南極点に到達しました。
一方、スコットは、1911年11月1日にスコット隊の本体が南極点に向けて出発しました。77日かけて1912年1月17日に南極点に到達しました。(ちなみにスコットの先遣隊は10月24日に出発しています。)
スコットとアムンゼンが南極点に向け出発した場所は違っていて、スコットの方が若干長距離であったが55日間と77日間では、スコットの移動速度が遅く感じられます。
この移動速度の差は、輸送手段の差が大きかったと思われます。アムンゼンが主に犬ぞりを使った(スコットの3倍以上の116匹の犬を投入)のに対して、スコットは雪上車(エンジン付きのソリといった代物)2台と馬ぞりを中心にし、犬ぞりは補助用だった。(第1回南極探検の時に訓練不足の犬が使い物にならなかったので、馬と機械に頼ったようです)
スコットの期待を裏切るように、雪上車は1週間足らずで2台ともエンジンが故障して使い物にならなくなり、馬も南極の厳しい環境下で次から次へと亡くなり、12月2日には、4人1組で曳引するそりが3台、犬ぞりが2台となってしまいました。12月11日に犬ぞり隊がスコット隊を離れ帰還すると、人力のみで南極点へ向かく事になりました。
ここにアムンゼンの北極での経験が生かされています。彼は北極での2回の越冬で、イヌイットから、犬ぞりの使い方や獣皮の着方など寒帯で生き残る術を学でいました。
スコットがアムンゼンより有利だと考えていたとするなら、それは、スコット隊の辿る南極点までのルート(約1500km)は、数次のイギリス隊によって踏破済みのルートを行くことで、未知の部分は全体の約1割の155kmということだと思います。それに対してアムンゼン隊は、全てが未知の部分を行くというリスクはありました。
「ただ天は、アムンゼンの前に立ち塞がることはしませんでした。」
南極点に到達したアムンゼンの帰路はさらに早く42日間で出発地点に帰り着いていました。
スコットは、71日間かけ3分の2ほどの距離を移動しましたが、そこで力尽きてしまいました。
悲惨な結果になった原因の一つに、防寒服の欠陥が上げられます。スコット隊が着ていた防寒服は、牛革を重ねた形状で、防寒性は優れていたが、耐水性に問題があり、汗などの体から出る水蒸気を吸い込み氷結して防寒機能が喪失したと言われています。
それに対して、アムンゼンはイヌイットの伝統に基づきアザラシの毛皮などで作られた防寒服を着ていました。
イヌイットの伝統を尊重したアムンゼンと大英帝国の力を信じたスコットでしたが、南極の極寒の前には大英帝国といえども膝を屈するほかなかったという感じです。
なので、アムンゼンは英国では冷たく扱われました。勿論、独立間もないノルウェーでは、国民のナショナリズムを喚起して英雄となりました。
アムンゼンは、帰国後、南極探検の費用返済のために、沢山の講演活動をこなしました。特に、米国での人気はすごく、自国より米国で多くの時間を費やしたと言われています。
偶然にも、日本人の南極探検家の白瀬中尉も、帰国後は借金返済のために講演活動をしたと伝わっています。
1926年、アムンゼンは飛行船で北極点に到達し、人類史上初めて両極点に到達した人物になりました。
1928年6月18日頃、56歳を前にアムンゼンは、北極で飛行艇「ラタム27」(紅の豚に出て来そうな飛行機)に乗って北極を探検していました。その時、近くで遭難した飛行船「イタリア号」の捜索に向かい行方不明になってしいました。
アムンゼンが乗っていた飛行艇は未だに発見されていません。
子供心に探検家になりたいっと思ったアムンゼンらしい死だったのかもしれません。
心から探検家だったアムンゼンと最期まで大英帝国のために戦った軍人のスコット、これが彼らの命運を分けたのかもしれません。
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