1769年にキャプテン・クックに英国のキャプテン・クックにニュージーランドが発見されてから、1840年にニュージーランドが英国の植民地となるまでの間にも、ヨーロッパ人はニュージーランドへやって来ていました。 その間の歴史を少し話します。
ニュージーランドを発見した後、1770年にキャプテン・クックは、オーストラリアの東海岸を発見し、ニュー・サウス・ウエールズと命名して領有を宣言しました。
1776年にアメリカが英国に向け独立宣言を宣告しました。 独立戦争は、それから1783年のパリ条約で英国がアメリカの独立を正式に認めるまで続きました。
アメリカの独立により、1788年から英国はアメリカの代わりにニュー・サウス・ウエールズを流刑植民地としてシドニーに囚人を送り込んで行きました。
1788年、英国のフィリップ大尉が、ニュージーランドを含むニュー・サウス・ウェールズの新しいイギリス植民地の知事としてシドニーに就任しました。
この頃は、オーストラリアの東海岸とニュージーランドを管轄する中心地はシドニーでした。
ニュージーランドに最初に短期定住しだしたヨーロッパ人は、ニュージーランド・オットセイの毛皮を狩猟する人々でした。 そのうちの何人かは1792年にダスキーサウンドにキャンプを設置しました。
1790年代には、捕鯨船や木材や亜麻を求めてニュージーランドに来るヨーロッパ人が増えて来ました。
1816年までには、木材貿易に関与する永住者が現れた来ました。
1820年代後半から、沿岸捕鯨が活発になり、ニュージーランドの沿岸部に捕鯨基地が作られた行きました。
1830年代のある段階では、捕鯨基地22あり、一つの基地で40〜80人の男性が働いていました。
こうしてニュージーランドにやって来る人の中には、シドニーなどで犯罪を犯して逃げて来た者もいました。
さて、今回の本題ですが、2人の若者の話をしたいと思います。
1人目は、ソロモン・リヴィー19歳(1813年)の時、イングランドのウェールズ41Kgのお茶と木製の箱の盗難に関与したとして7年間の実刑判決を言い渡されて、1815年1月に彼はシドニーに流刑されました。1819年2月に免罪され、同じ月に父親が裕福な地主であったアンと結婚しました。彼らには2人の子供がいました。1819年に生まれた息子と1822年に生まれた娘でしたが二人とも乳児期に亡くなってしまいました。 彼の妻は、彼を捨てて愛人と一緒になるが、1824年2月に亡くなりました。リーヴィーは彼の人生の残りの間独身を通しました。
1819年に恩赦を受けた後、リヴィーはニューサウスウェールズ銀行に勤務し出しました。 1825年、31歳で彼はダニエル・クーパーと提携し、シドニーのジョージ通りでクーパー&リヴィーを設立しました。 同社は、商品の輸出入、造船、羊毛取引、捕鯨など、幅広く商売を行いました。 1828年までに、それは国内で最も大きなの会社つになりました。 Cooper&Leveyは最終的に、ウォータールー、アレクサンドリア、レッドファーン、ランドウィック、ニュートラルベイの土地のほとんどを所有しました。
1829年に、リヴィーは、西オーストラリアのスワン川植民地を支援するよう説得されて、ロンドンのThomasPeel&Coのディレクターになりました。 同社の2万ポンドの資本は、リヴィーのシドニーで所有していた土地を売却して提供されました。 仲間の経営ミスでこの事業は失敗してしまいました。
(2万ポンドとは現在でいえば10億円かそれ以上の価値があたのでは?)
リヴィーは1833年10月10日に39歳でロンドンで病気で亡くなりました。
ニューサウスウェールズに残された彼の不動産は、推定14,332ポンドの価値がありました。
2人目は、リヴィーとCooper&Leveyを設立したダニエル・クーパーです。 1815年、彼が30歳の時に、イングランドのチェスターで窃盗罪判決を受け、流刑を宣告されました。彼は1816年1月にシドニーに到着しました。1818年に条件付き恩赦を受け、1821年に絶対恩赦を受けました。1819年1月6日、彼はシドニーのセントフィリップ教会でハンナドッドと結婚しました。
1818年から1822年の間に彼はジョージ通りで雑貨店を経営し、隣接するパブの経営もしました。彼は輸送業に少額の投資をしました。そして1824年に彼はオーストラリアの醸造所を設立するなど幅広く活動していました。
1825年、クーパー40歳の時に、リヴィー(31歳)とCooper&Leveyを設立しました。大規模な小売業を維持するために、同社は、ジャガイモ、塩豚、小麦、米、ワイン、繊維、その他の商品のを求めニュージーランドとソサエティ諸島、インド、モーリシャスなどに船を送りました。
オーストラリアの羊毛のイギリスへの出荷の先駆者として主導的な役割を果たしました。
ニュージーランドでは、木材、亜麻、塩豚を調達するためにホキアンガに独自の施設を設立し、そこからニュージーランドの海岸の多くの場所へ船を派遣しました。
勿論、クライストチャーチの側にあるバンクス半島の沿岸にもCooper&Leveyの会社の船が頻繁に訪れることになったことでしょう。 そしてバンクス半島にある港や湾に独自の呼び名をつけたと思われます。 その中に、ポート・クーパーとポート・リヴィーがありました。
ポート・クーパーはのちにリトルトン港と呼び名が変わりますが、ポート・クーパーのすぐ横に位置ている長い湾の名前は、今もポート・リヴィーと呼ばれています。
ポート・リヴィーには、バンクス半島で一番大きなマオリの集落がありましたので、木材や亜麻などの調達に来ていたと思われます。 もちろん、ポート・リヴィーより大きなポート・クーパーにも船は寄っていたと思われます。
一方、ポートー・クーパーの入り口すぐに、小さな入り江があり、そこは1830年代に沿岸捕鯨の基地が出来ました。 その小さな入り江は、リトル・ポート・クーパーと呼ばれていました。 そして、今でもその名が残っています。
1826年、ソロモン・リーヴィはシドニーを離れてイギリスに向かい、会社の運営はクーパーに任されました。 そして、クーパーの会社経営は大きな成果を見せました。
1831年、クーパーが46歳の時にイギリスに帰り、ロンドンから会社全般を監督するようになりました。
クーパーは1853年11月3日にイギリスのブライトンで亡くなりました。68歳でした。彼の妻は1836年6月に亡くなりました。 クーパーには子供がいなかったそうです。
彼には、3番目の妻がその時いたということです。
今では考えられない、窃盗で流刑になってしまった時代に、生きた2人の人生を垣間見て、幸せだったのかなー? とつい考えてしまいます。
1858年、ポートー・クーパーは、カンタベリー協会の管理委員会の委員長であったジョージ・リトルトン卿を称える意味を込めてリトルトンと名前が変わりました。
リトルトン卿は1848年にカンタベリー協会の共同創設者であるジョンロバートゴッドリーの依頼を受け、カンタベリー協会の管理委員会の委員長としての役割を受け入れました。
彼は、5年間の運営を通じて協会を結びつける重要な役割を果たし、クライストチャーチは彼なしでは実現できなかったと言わしめるほどの人物でした。
1868年2月5日、51歳を前にリトルトン卿はイギリスの蒸気船を降り、彼にちなんで名付けられた港町リトルトンに初めて立ちました。 その後、リトルトンから汽車で2か月前に出来たばかりのトンネルを6分半かけて乗車し、クライストチャーチ駅までさらに10分乗車しました。
彼は、カンタベリーの発展にとても満足していました。 その夜、タウンホールで歓迎会が行われたのはいうまでもなく、翌朝、タウンホールで初期移民の200人とカンタベリー協会の船出来た人々と朝食会が持たれ、夜にはまた盛大なパーティーが行われました。
短い滞在で、リトルトン卿は、英国へと帰って行きました。
1869年、リトルトン卿は、再婚して3人の娘を授かりました。
1857年に死別した最初の妻との間には、8人の息子と4人の娘がいました。
1876年4月19日、リトルトン卿は、69年の人生を閉じました。
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