クライストチャーチ市中心部の中心に位置しているのが、大聖堂広場です。誰もが、「大聖堂広場」又は「広場」と呼び親しんでいる広場ですが、実は、違う名前を当初は考えていたと言われています。 その名前は「リドリー広場」でした。
どうして、「リドリー」という名前が出て来たのか? それを知るにはイギリスの宗教改革の歴史を知る必要があります。
時は16世紀、イギリスはヘンリー8世(在位1509〜1547年)の時代に、王妃カザリンと
の離婚問題でローマー法王と対立してカトリック教徒を辞めてしまいました。 そして、
国王至上法(英国王は、国教会の唯一の最高の首長)を発布し、英国国教会を創設しまし
た。
ヘンリー8世の後を、息子のエドワード6世(在位1547〜53年)が英国王になり、一般
祈祷書(英国国教会の教義や制度が整備される)を制定しました。
エドワード6世の後を、妹のメアリー1世が王位につきました。 彼女は翌年、スペイン
皇太子フェリぺ(のちのスペイン黄金期に君臨したスペイン王)と結婚しました。
(余談)フェリペ王は、共同統治者としてイングランド王「フィリプ1世」の称号も
持っていました。 フィリピンの国名はこのフィリップ1世名前から命名さ
れています。
スペインは熱心なカトリックの国でしたので、メアリー1世は、イギリス国民にもカトリックを強制し、英国国教会を弾圧しだしました。
この弾圧で、「オックスフォードの殉教者」と後世伝えられる事件が発生しました。オックスフォードにある聖メアリー教会で、異端裁判にかけられ、ラティマ司教、リドリー司教とクランマー大主教が火刑で処刑されてしまいます。
「リドリー」の名前が出てきましたね。 そうです、リドリー広場の名前は、リドリー司教の名前を取って命名するという考えがあったからです。
どうしてか? それは、クライストチャーチの街づくりが、英国国教会によって立ち上げられた移民団組織「カンタベリー協会」が、英国国教会の総本山がある宗教都市カンタベリーをモデルに街づくりが行われたことに深く関係します。
クライストチャーチの街づくりは、ここを基点に英国国教会の布教活動をするという目的もありました。
イギリスでは、クライストチャーチの街の中に3つの広場を作る計画がありました。 その3つの広場に、「オックスフォードの殉教者」で知られている3人の名前を使うという案が出ていたようですが、なぜだか設計段階では、3つの広場の名前に「リドリー」は記載されていませんでした。
3つの広場は予定通り作られ、ラティマ広場、クランマー広場と大聖堂広場が出来上がりました。 ラティマ司教とクランマー大主教の名前は広場の名前となりましたが、リドリー司教の名前は残念ながら広場の名前としては使われることがありませんでした。
女王メアリー1世の後を、妹のエリザベス1世(在位1558〜1603年)が即位しました。 彼女は、統一法(英国国教会の礼拝や祈祷の基準を統一)を制定し、英国国教会を確立しました。
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