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大聖堂広場に立つクライストチャーチ創設者の銅像

更新日:2021年7月2日


クライストチャーチ市民のどれだけが、この銅像の人物に関して知っているのだろうか?


彼の名前は、ジョン・ロバート・ゴッドリー(John Robert Godley)、1814年5月29日に、アイルランドのダブリン生まれました。 父親は、アイルランドのリートリム州とミース州に土地を持つアングロアイルランドの地主でした。


1832年に彼は、奨学金を受けてオックスフォード大学のクライストチャーチ校で古典を学びました。1836年に古典を卒業しました。彼は常に病気がちで、法律の勉強は達成できませんでした。


1839年、25歳のゴッドリーは、アイリッシュバーで働くかたわらに、歴史、政治理論、経済学を広く読んで、法廷弁護士になるためのを勉強しました。この勉強から、彼は彼独自の政府と社会のありかたの考えが芽生えてきました。


1842年、28歳の時、米国とカナダを旅しました。 彼は米国の民主主義を信用していませんでしたが、米国とカナダで行われていた自治が、道徳的にも物質的にも民を幸せにすると見ていました。


彼の旅行は植民地の設立と統治についての彼の考えに影響を与え、彼の考えを形成するのを助けました。


1843年、29歳にしてアイルランドのリートリム州(ゴッドリーの父親が土地を持っている州)で高級保安官に任命されました。 翌年には副統監と治安判事に任命されました。


1801年からアイルランドは、イングランドに併合されていて、アイルランド人の大半がイギリス人の小作人として働かなければならない状況でした。 農地の3分の2は小麦を栽培して、それをイギリス人の地主に納付し、残りの3分の1にジャガイモを植えて自らの食料としていた時代です。


ゴッドリーは、リートリム州の平和と秩序を維持するために必死に努力しました。イギリス政府の強制に反対し、カトリック教育を支援するなど彼のリベラルな考え方を示しました。


そんな彼の努力も、1845年から始まったアイルランドのジャガイモの凶作に打ちのめされてしまいます。


(アイルランドのジャガイモ凶作)

1845年に疫病でジャガイモの収穫量が激減し、翌年に作付けするための種イモまで食べてしまいました。 結果、1846年の作付面積は前年の3分の1にまで縮小してしまいました。さらに1847年にも種イモ不足のため収穫が5分の1になってしまいました。そして1848年には、大凶作で作付けしたジャガイモのほとんどが実ならなかった飢饉のこと。


ゴッドリーは、イギリス政府にアイルランド農民の救済を求めたり、長期的な救済策を考えました。


イギリス政府は、アイルランド農民を見捨てた。 アイルランドには、その時大量の小麦が

あったと言われていますが、貧しい農民は小麦を買うお金がありませんでした。


結果、アイルランドの人口は1841年の817万人から1851年には655万人と激減しました。この飢饉では約150万人の病死者,約100万人の移民が出たと言われています。


1847年、アイルランド農民の苦境を救うために、ゴッドリーはカナダのオンタリオ州へのアイルランド人の大量移民を計画します。 そして彼はこの計画を実現するために英国議会の議員となるためにリートリム州の議員に立候補しますが、移民計画に反対のカトリック司教の邪魔にあい落選してしまいました。





1847年11月にカンタベリー協会が発足しました。 協会のメンバーの一人であるウェイクフィールドは、ゴッドリーのリーダーシップと世間の評判から、自分たちが計画しているニュージーランド植民地化の協力者として適任だと考えました。


1848年3月27日にロンドンで設立されたカンタベリー協会は、ゴッドリーの考えを尊重し、これまでに形成されたことがない植民地計画を作り上げました。


カンタベリー協会には、ジョン・サムナー(カンタベリー大主教)が、協会の管理委員会の委員長を務め、委員会自体には他に司教と聖職者や国会議員が含まれていました。その最初の会議で、移民先の地域を「カンタベリー」(おそらくカンタベリー大主教にちなんで)とし、集落を「クライストチャーチ」(ゴッドリーが学んだオックスフォード大学のクライストチャーチ校にちなんで)と命名しました。


ゴッドリーの植民地計画は、それまでの植民地政策ではなく、移民するのだという点に重きを置いていました。 なので、移民先のカンタベリーには、最初から社会のあらゆる階層からの移民者、移民の支援体制、男女のバランス、教会や学校が必要としていました。


カンタベリー協会は、英国の植民地省に移民先のカンタベリーに自治憲章を作る許可を求めました。 ゴッドリーは、自治憲章こそ自立精神の鍵であると信じていました。


いよいよニュージーランドへ、36歳を前にしてゴッドリーは妻と赤ん坊の息子と共に、1850年4月に協会の「レジデントチーフエージェント」としてポートクーパー(リッテルトン)に到着しました。


その時のカンタベリー協会は、財政的にかなり苦しい状況でした。 土地の売り上げは楽観的な予測を大きく下回っていて、リトルトン卿と主要な支持者は協会を何度も破産から救いました。


最初の移民団を乗せた、4隻の船の艦隊は1850年12月にリッテルトンに到着しました。


カンタベリー協会の財政が思うようにならない苦悩の中でゴッドリーは彼らを迎えなければなりませんでした。


その時のゴッドリーの心境を妻のシャーロット・ゴッドリーは、「夫は笑うべきか泣くべきか分からなかった。」と述べています。


次の2年間、彼はクライストチャーチと呼ばれる集落のリーダーを務めました。


彼は人々の悩みを整理し、必要とあれば出かけて行き、夜は家を開いたままにしてクライストチャーチの街づくりに没頭しました。


ゴッドリーは、「現在ではなく未来​​に向けて対策すべきだ。」という信念を持っていました。


彼は、入植地が強力な農業基盤で良いスタートを切ることができるように、リースの条件を変更するようにカンタベリー協会と交渉しました。


ゴッドリーは、カンタベリー協会の目的はカンタベリーを支配することではなく、カンタベリーを設立することであると信じていました。


彼は植民地が自治的であるべきだと考えました。 きっとこれは、昔アイルランドで苦労した時にイギリス政府があてににならなかったことが大きく影響しているように思えます。


彼は、入植者が彼らの業務の管理をして、彼らの決定の結果に責任がない限り、繁栄することも道徳が成長することも決してないと信じていました。


このゴッドリーの考えが、英国のカンタベリー協会の人々には理解されなかったようで、イギリスから来る手紙は、決してゴッドリーを喜ばすものではなかったようです。


1851年6月にロンドンにあるカンタベリー協会の取締役会でゴッドリーに辞任を申し込ませる決定が下りました。 そして、ゴッドリーはニュージーランド憲法が宣言され、カンターベリーが独自の政府を持つまで留まることに同意しました。


1852年11月、ジョン・ロバート・ゴッドリーにカンタベリー州の初代監督官になるように人々から求められましたが、彼はそれを断りました。


ゴッドリー家は、1852年12月にクライストチャーチを去って行きました。


その後、志半ばでクライストチャーチを離れたことをとても悔やんだそうです。


英国のグリニッジのトラファルガーホテルで彼を称えて開催された宴会で、ゴッドリーはカンタベリーが、如何に短い期間に発展したかを説明しました。


英国では、ゴッドリーはいくつかの新聞のコラムニストとエッセイストとして働いていました。彼は主に植民地改革について書いていました。 それは彼の人生の大切な主題でありました。


彼はまた、英国の戦争省に雇われていまた。そこで彼はイギリス植民地の自治についての彼の議論を続けていました。


ゴッドリーは1861年11月17日に47歳の若さでロンドンで亡くなりました。


クライストチャーチ市民は1867年にゴッドリーの銅像を大聖堂広場に建てました。

(銅像は、英国の彫刻家のトーマス・ウーナーにより、1865年に英国のシュロップシャーのコールブルックアールの鋳造所で作成されました。)


もしその時、ゴッドリーが成長したクライストチャーチの街を見ることができたなら、彼は自分の銅像より、クライストチャーチの街の発展を喜んでいたことでしょう。


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